蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

<私見>飲光慈雲尊者

★ 慈雲尊者曰く、『神道の赤心は、密教の清浄菩提心を知ることに在り』と。

故稲谷先生の著書では、江戸中期以降、平田派国学者の檀那寺院に対する突き上げが激しくなり、対抗し得る教学理論の再構築に迫られていた時代背景も、一方で考慮する必要があったとある(東密口訣集成(5)雲伝神道伝授大成:東方出版社)。これは『神道辞典』において指摘されていることだが、雲伝神道では、『夫婦・朋友の道』ではなく『君子の道に通じる』を第一に据えて尊重する。後世の神道家が(復古神道のそれと近いとして)注目すべき箇所としているようである。但しこういったところに、平田派急進的国学者への配慮があったとしたら穿ち過ぎだ。若年においては伊藤東涯(伊藤仁斎の子)に師事して国学を学び、そこで得た深い洞察を基にした結論として考えなくてはならない。

これについて私は、我が国の国是として『神仏儒の三教を尊重する』とした日本仏教の大先達/聖徳太子の伝統に回帰したもの―――、そう見るべきだと考えている。一人の仏者として、社会の安寧/調和を熟慮した結果なのだ。

但しである…。当時の檀那寺の多くは(今もそうかもしれないが)、江戸幕府治世下の檀家制度に胡坐をかき、祖霊祭祀の建前を専らとするあまり、多くは仏家として本来的に護持すべきミッションをかなぐり捨ててしまっていた。雲伝神道ではこれを安直な態度と見て、あろうことか密家なのに『加持』を蔑ろにする態度を批判する意味を込めて、多角的な視点を堅持しつつ、痛烈批判として打ち出されたと見る方が正しいと思う。とりわけ慈雲尊者が、戒律護持を強く主張されていたことも(十善法語など)、併せて考えなくてはいけない。

実際、江戸時代まで真言密教では、葬式執行は原則ご法度である。それは近年の名だたる大徳においても、大喝された事例であったとお聞きする。生きている人間を相手にするのが密教なのであって、死者を相手にするのではないからであり、葬式をするならば『二束のワラジを履くこと』と同義であったと言うのだ(⇒元禄期の浄厳律師による結縁灌頂開檀は、この観点から想起すべき。葬儀至上主義を排する意味からも、曼荼羅の大事として受け止めなくてはいけない)。

例えば病者に対しては、薬力の服用に併せて『加持する』ことがごく普通にあったし、それは明治期の高野山、京都諸寺においても同様だった。ここで念の為お断りするが、『真言密教における加持には帰依を要す』(秘蔵記)とあることだ。意味するところは、正しく加持を受けた人は、その瞬間、大日如来との結縁を果たしている、ではないか。その尊い種子を布施したことになる意義を、授ける側=真言行者において、絶対に忘れてはいけないと思う。(今でも一部にその伝統が残っているのだが、残念なことに、呪術行為に頼む少数派として位置づけられている。⇒猛省を要す)

★ 神道を闡明(せんめい)にするは、仏教の力多きに在り。仏教の効用を発揮し得るは、専ら神道の力に拠る。神仏は此上に立ちて作用す(高天原雑記)。

ところで、慈雲尊者が批判した両部神道、とりわけその分派となる御流神道の中興/日光院英仙師は高野山におられた。その後資の中に真源という方がいる。この方は、現行の三憲相承においては、必ずお名前を拝する(洞泉師に対称する)法匠であり、南山進流声明の達人であった。

この真源師を始めとする事相家グループにおいては、密教修行に対する神祇の外護を真剣に追い求めたことは(かなり)あっただろうと思う、否、拙いかもしれないが、自分自身の修行体験から言って、そう確信する。上記の『高天原雑記』の一節を初めて目にした時、自らの体験をありありと思い出して、膝を打って同意したのだが、その真源師は、飲光師(=慈雲尊者)と同時代の人であり、交流のあったことが指摘されている(法蔵館密教辞典)。慈雲尊者においても、当たり前だが、純然たるな机上の人ではなかったのだ。

その慈雲尊者が、両部神道の中核的な教説となる『伊勢内宮・外宮を金胎両部に配置する』ことを批判した。これは私見であるが、尊者の学究の態度から言って、ある意味において当然だったのだろうと思う。『迷妄の要素を排除したい』こともあったろうが、寧ろ、天津神国津神に対する優越性の度合いを斟酌した時、天津神にばかり依拠しようとする態度に、両部神道を信奉する者の中に、時の権力におもねる安直さを見て取ったからではないか。そもそも檀那寺とは、過去帳(という戸籍簿)を管理する徳川幕府出先機関であるから、住持の中から、事大主義に走ってしまう者が出たとしても不自然ではないが、そのような態度で開き直るならば『弘法大師空海の偉業を汚す』ものでしかない。

考えてみれば、国津神の代表である大国主大神が、その御子たる事代主命に命じて平和裏に国譲りを実施せず、鹿島大神/武御雷命に果敢に応戦していたら、そもそも『瑞穂の国』など絵に描いた餅となっていた筈だ。そのような事跡を(あまりに)無視する限り、密家泰斗/慈雲尊者にしてみれば『フェアーではない』のだ。

それはさておき、真言密教の威神力を発揮すべく構想した先徳方の教えに対する尊崇の気持ちは相当にあったと想像するが、逆に英仙師の系譜から、慈雲尊者の教説に対する批判が起きた。それゆえ、ここは注意が要るのだ。真言の事相家にすれば、真言神道において思想上の路線闘争をする気など毛頭なく、例えば御流神道における祈りの実践によって生じる功徳力の発露の行方にこそ関心があった。

★ 神道無為に趣けば仏法なり。真正の大道、もし世間に顕現せば神道となる(神道要語)。

ともかく慈雲尊者は、『学究』の態度を堅持された。その集大成としては、寧ろ『梵字悉曇文法大辞典⇒梵学津梁』の編纂作業が、後世の高い評価を受けることになる。何しろ、このサンスクリット語大辞典は世界初/空前絶後ものだ。鎖国状態だった筈の『江戸中期の極東の島国』においてそれが完成された事実の凄さについて、我々はもっともっと知って良い。明治期に来日したフランス人/シルヴェン・レヴィに評価されたからスゴイであれば、末徒としても、何よりも日本人としても、あまりに情けない。

慈雲尊者にすれば、そのような『スーパー・ハイレベル』に到達してしまっているから、密教の事作法のこととは言え、『神秘直感』と称している輩で、どんなにか贔屓目に見ても『奇妙奇天烈』としか思えない所作の横行する様子を、諸手を広げて歓迎することは有り得なかったと思う。ハッキリ言って、相当な抵抗感をもって厳しく断罪されたことは想像に難くない。

最近、改めて開いてみて目に留まった一節がある。日光修験道の伊矢野先生が記された『修験道~その教えと秘法~』(大法輪閣)に記されていることだ。『現今の修験者の多くは勉強不足であり、切実感に欠ける』と―――。

真言神道が『神秘直感』に基づく教説を前面に打ち出すのをイイことにして、己が教説のレベルの低さに気付くことすら出来ず、あろうことか『神託』として呈示し得ると勘違いする態度…。“勉強不足”“切実感”の不足を放置した先は、『天に唾する態度』となる―――、そのように読み替えたことを、率直に吐露したい。だからと言って、『迷妄を排する』に拘るあまり実証主義オンリーに偏ってもダメで、それはそれで宗祖大師の教えに反するのだ。慈雲尊者ご自身も、そのことを(紛い物でない)神秘体験として体得しておられたからこそ、却って、それらすら広く包容して真理の把握を試み、同時に、道の顕現に努めたのである。

★ (密法の)無相の法門を以て、有為を補佐すと云へり(神道国歌)。

慈雲尊者のことを考えるたびに、行者たる自分にとっての大事とは何か?―――。胸に手を当てつつ、反省することは多くある。永遠の目標だ!!(笑)