蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

神奈川県立金沢文庫

ここは実家の地元でございます…。境内地の称名寺は、ハッキリ言って、普段何しているよく分からないお寺でした。今は存じ上げませんが、伽藍の整備がなったこと以外は聞いたことありませんので、今もよく分かりません…。而して、往昔は今と全然違っていたことが、金沢文庫の展示企画から時折伺うことが出来ます。

歴史的には、称名寺鎌倉幕府の庇護を受けたバリバリの学問/祈祷の寺院でした。称名寺は一方で真言律宗の別格本山で、実は『戒律宗派』であった/ある(?!)のですが、ここのところになると、もはや誰も知りたがらないし、関係者すら沈黙しているかのようです。

この戒律宗派であることが、とても意味深なところなのですが、そんなことはどうでも関係なしで、ひたすら観光寺院として生き永らえている姿は、正直哀れです。同じく真言律宗の『生駒聖天』とは、宗教施設という意味を考えた場合、まったく相反する印象を受けます。

それゆえ、この戒律重視の宗派が真言宗内にあることを蔑ろにするスタンスでいる限り、『ダキニ天法』とか『宿曜道の式盤(占盤)』とか言っても、一般の人はなおさら、ただでさえ訳が分かりませんので、展示企画だけは一人歩きすることになります。

『ダキニ天法を拝んだから称名寺は残った』との解説があったことを、勇賢さまのブログ記事で知りました。『金沢文庫の研究員は本当に分かって言っているのか?』と思っているところです。もし分かった上での発言だとすれば、その研究員はブラックユーモアの達人デス。

ここ金沢文庫には、称名寺の先師によって長く保存された『真言立川流聖教』が遺されています。ですが、真言立川流の展示企画など、知る限り、ついぞやったためしがありません。この聖教類について、一般書籍を通じ公開して解説したのが、前館長/真鍋俊照師でした。高野山の宥快法印が、山王院の前庭で焚書坑儒したとされる聖教類が、ここ武州金沢(ぶしゅう・かねさわ)の地で護持されていたことは、ある意味奇跡だと思います。真鍋先生が、世間に流布する安易な邪教云々のレッテル剥がしを断行し、その真価を見抜いた上で公開に踏み切られた時、さすが故中川善教前官のもとで修行された方だなと、誠に僭越ですが、いたく感服したものです。

金沢文庫がリニューアルオープンした15年くらい前だったと記憶しますが、そのオープン時の入り口正面には、称名寺をずっと見守られた弥勒菩薩像が安置され、左右には原寸大/極彩色の金胎両部曼荼羅、手前には(供物は省略されていましたが)大壇に四面器(一面器ではなく)が荘厳されていました。

当時、YFU・シニアプログラムでニューヨークから来日した米国婦人を案内して、日本語でも大変なのに、必死で英語解説したことを今でもよく覚えています。特に、胎蔵曼荼羅の最外院に描かれたダキニ天と死体の箇所について、あれこれと説明を試みたことが昨日のことのようです。

本尊/弥勒菩薩とは『龍華三会』を主宰して、末法時代を救済する仏さまです。近隣の洲崎(すさき)に『龍華寺』という真言寺院があるのですが、寺院名の由来が『弘法大師の御遺告』に記された『兜卒浄土』を標示する寺であることなど、ほとんど誰も知らないと思います。この地において未来仏信仰のあったことすら、その称名寺周辺から発信されたなど、ついぞ聞いたことがありませんから、『なんで弥勒菩薩なのか』など、訳も分からず、ただ眺めているだけだったと思います。

称名寺に現存する宝物では、先ごろ『快慶作の大威徳明王像』が発見されたばかりです。私は瞬間的に『鎌倉幕府内部の血みどろの権力闘争』を思い浮かべました。大方『国宝級の素晴らしい遺品=お宝』の受け止めをされたと思うのです。実家の母もそんな感じでしたが、『それで済むわけがない』と思ったのは、私を含む少数の人たちだったことでしょう(苦笑)。

この本尊さまを拝んだと思われる実朝公の護持僧が、平穏無事の祈願目的で済ます筈がないのデス。行者世界の住人なら、直ぐに理解することではないでしょうか。とにかく『対人目的』だった筈…。歴史を愛好される方で、鎌倉将軍家の祈祷記録を目にされた人もおられると思いますが、私が三代実朝公の時代に記録されたとする資料を見た時は『ギョッとする祈願』のオンパレードでした。要するに『調伏目的』の修法ばかりで、大威徳明王の小さなお像をテレビで見た時、『あ~、やっぱり』とばかり、妙に納得したものです(苦笑)。

冒頭の『ダキニ天法』ですが、先ずこの種の天部尊修行をするためには『戒律護持の清僧』であることは必須条件と考えられていたし、実際、今でもそうです。真言宗に『戒律宗派』が出現したことは、一面では、叡尊律師・忍性律師のされた社会事業の側面から捉えることが普通だし、それ自体に異論はありません。さらには、浄厳律師、慈雲尊者などがお出ましになっているのだけれども、その業績はもっぱら世間受けする『学術的』に限定されてしまって、宗教者としての足跡は(ほとんどが)タブー視するのが常識化しています。

強いて言えば、浄厳律師の結縁灌頂くらいが紹介される程度でしょう。そういう視点でいるから、生駒聖天開山の湛海律師の名前が挙がっても、称名寺を参拝する人の間では、ほとんど知らないのではないかと思います。同じ真言律宗なのにデス。

『ダキニ天法』が『賞罰を厳格とする修法』の代表選手であることなど、研究員もよく知らないことだと思います。聞いていたとしても、実際にどういうものかを感覚的に掴んでいないと思われますので、キツネ?ジャッカル?の顔になってしまった古代インドのダーキーニ女神だろう、くらいを想像するのが精一杯なのかも知れません。屍林にある死骸の上で『死のダンスを踊る血の女神』が一体如何なるものか。実際に拝んで触れ合う以外にないことですが、こういう娑婆のドロドロに密接に係わっていた寺であったことを、どうして『卑下するのか?!』『隠蔽するのか?!』、とても奇異です。

私の拙い体験で恐縮ですが、かつてダキニ天と習合した『稲荷明神』の秘歌を唱えて祈願したことがありました。それで(やっぱり)異変が起きました。その時の率直な感覚は、眷属が騒々しく動くというものでした。その代わり、ドラスティックな目に見える変化が起きました。正直『叶い過ぎてしまう感覚』がありました。それも性急に。

しかしながら、これでは自分らしさがダメになってしまうと直感しました。あと少しの努力をすることが、息つく暇もなく過ぎてしまうような感覚は、自分には向かないと思いました。『正当な対価を得る』ことが、まったく違う意味で否定されてしまうような感覚でした。『楽して対価を得る』とは言い過ぎだけれども、それを示唆するような感覚は、その時はいいけれども、将来必ず禍根を残すに違いないと思って引き返しました。

それ以来、『その日』が来るまで、冗談抜きで『封印』でございます。

こればかりは体験して知るしかないことですが、相性もあるにはあるのです。ですが、戒律護持を自らに課することが出来ないまま過ごせば、ダキニ天との係わりで、間違いなくボロボロにされてしまうだろうというのが、私の受けた率直な感想です。

さて『宿曜道の占盤』は、天皇家に伝わっていた『ダキニ灌頂』(今は廃絶したそうですが、私の記憶違いでなければ、現在の東宮さまが研究された筈。ベタ記事を一度目にしていますが、二度と表沙汰にしないと思う)と、密接に係わるものです。

知る範囲になりますが、その日その日の干支(例・甲子(きのえね))を確認して式盤に配置し、その方向に(この式盤には東西南北があり、それは口伝箇所となる)●△を『吹き払う』所作があるはずです。

そもそも『天皇』という言葉それ自体が、北辰=北極星のことであって、天体の中心に座する存在として崇める、陰陽道信仰からくる言葉です。つまり、ダキニ天と式盤を組み合わせて拝むという意味は、天体全体を強力に拝んで『指図する』ことでもあるのです。それ自体を鎮護国家/済世利民の修行にリンクさせるということですから、破戒の輩には許可されないことは自明であります。だから『律宗』の独壇場でもあったのです。

そして―――、このダキニ天と密接に係わるのが、真言立川流です。こういう修行を称名寺代々の先師は担っていました。ここのところを、もう一度しっかり捉え直して欲しいものだと願っています。もっと言えば、ダキニ天の習合した稲荷明神は、真言宗屈指の鎮守神祇です。

金沢文庫の展示企画が『称名寺のタブーを打ち破る』ことに挑戦したならば、間違いなく格段の厚みを増すのです。今のまま、称名寺の寺宝を紹介し続ければ、時勢に迎合する薄っぺらな展示企画の域を出ないと思っております。お寺も、この点で<中世の事相面は避けて通れないのだから>協力すべきだと思います。それがないと、いつまで経っても、中世の密教はオカルトじみていると揶揄され、興味本位の見方に間接的な加担をしてしまうことを認識すべきなのです。