蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

供給過多

加行と灌頂を済ませたものの…。もう修行道場に足を向けることはないのかも…。寂しくなってしまうなあ…。
…と思ったのも束の間。まったくの杞憂だった。考えてみれば、お寺としての諸行事があるのだ(!)。サボってるんじゃねえ~、なのだ(笑)。

私の所属宗派では『前行』(ぜんぎょう)と言って、大祭の一ヶ月前くらいから、本山でそうしているように、住職と弟子らが手替わりで所定の結願座数になるまで拝んでいく。その前行を完了して本番の護摩供を迎え、当日は参拝の随喜信徒の方々に祈祷札をお配りするのだ。

二月は、旧暦の年度替わりになることから、その某大祭の前行が開始され、先週末そのうちの二座を修法させて頂いたのだが…、何しろ寒い!! 毎年のこととは言え、何しろ冷蔵庫の中で拝んでいるのも同然なので、手先はドンドン冷たくなるし、最後にはろれつまでもが…(涙)。

ところで、週刊ダイヤモンド/08年1月12日号『特集:寺と墓の秘密』は、とても興味深い内容で、大いに啓発されながら読んだ。この手の話題では、とかく『感情論』が先行する傾向があって、そういう記事ならば、正直つまらないと思っていた。

ところがこの特集では経済誌らしく、具体的な数値を示して、供給vs.需要のバランスの観点から論じており、同時にコンプライアンス(法令順守)という視点から、寺の相続権/経営権の問題を指摘していて面白かった。

このような分析は、企業に席を置く人間の目には当たり前のように見えても、その現場で純粋培養されてきた人には、逆にかなりの違和感をもって迎えられることだろう。『そうは言っても…』という言い訳が通用してしまう現状があるように見える。尤もそれは『変化を嫌うマインド』として、企業社会の人間からは、最も警戒する態度と言わなくてならない。これを放置すれば、その企業は『死ぬ』⇒『従業員は路頭に迷う』からだ。

さて―――、その雑誌は副住職のYさんに渡した。何か思うところがあったような感じで、『オレもなんかやんないと…』(笑)。(因みにYさんは本山での修行後、思うところがあって、この世界とは別なる世界で15年間くらい経験して戻ってきた人だ)
要は、自分たちで切り拓いていく気概を失ってしまえば、この世界とて例外ではないということである。次世代の自分たちの新機軸は何か。先師の築かれた遺産を、どうやって継承発展するべきか。創意工夫して、新しい仕組みと共に、『何か』を生み出すことが求められている。それゆえ、アイディアのオツムは、一つよりは二つ、三つくらいはあった方が良い。

『聖域』と勘違いしている人のいることは、よく知っている。しかしながら、それは先師の貯金を取り崩してきた現実を、かなり近い将来に、それも信じられないような打撃を伴って思い知る可能性が高いだろう、と考えている。そこに示された数値は、1995年を境に『供給過多』に転じたことを示しており、その乖離は、13年経って、ますます広がりつつあるのだ。

これを見て、危機感をもつ、或いはもたないは、まったくその人の自由だ。が、自分たちのところでは『そうはさせない』。そう考えてみると、まだまだやるべきこと/やれることは山ほどある。