蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

衆生秘密

修験道の修行で出会った人/出会う人―――。ただ、ひとつだけハッキリ言えることは、『優しく接してくれるんだなあ~』と…。そういう心に染みるような触れ合いが、何度もあったという経験、それに尽きる。

優勝劣敗のあり方を突き詰めれば、『1割の勝者と9割の敗者』しか残らないとの意見があり(数学者/藤原正彦氏)、まったく同感だ。

自分よりも弱く劣った人。これについて、己の視界から省くことは出来るものではナイ。自分の立場をわきまえるという意味でも、それは重大事だ。

人を暖かく迎え入れるとは、取り繕った態度でするものではないことは自明である。『山』という行場は、一歩間違えれば、落命の危険を伴うものだが、そういう極限の場所にあっては、(意外かも知れないが)人は助け合おうとするのだ。そうやって先師は、後進に『身体ごと教えた』のである。

そう…、わずかの水と握り飯を分け合い、ばててしまった人の荷物を分けて、皆で肩代わりする。冷え切ってしまった身体には、暖かい汁がどれくらい有難いか…。気を取り直して、さあ一緒に同じ高みの嶺に到ろう、と励ます。時代を超えて先師から後進に、密法の真理として、脈々として伝えてきたものなのだ。

ところで大乗仏教の教理は、膨大な知の体系によって構成される。密教は、その大乗仏教が到達した一大地点であり、まさに精華である。言い換えれば、仏教通史を学んでおかないと、その教理的な側面を知ることすら出来ないのは事実で、これによって『如来秘密に対する衆生秘密(*)』という、秘密仏教だけが有する独自のロジックの成立することは知っておくべきだろう。

そのロジックの隘路に嵌ってしまう現実は、哀しき凡夫である以上、きっと経験する。否、あって当然なのだ。但し、『身体活動の側面から知る』こと。即ち、『体験することで知る世界観』のあることを伝える意味は、過度な情報量で爆発しそうなバーチャル時勢にあって、だからこそ重要である。

『優しいんだなあ~』と感じた瞬間、そこにはいつも『笑い』があった。心の傷だとか、隙間だとか、そういうものを瞬時に包み込んでしまうような、骨太の優しさがあった。

平たく言ってしまえば、『頭の体操だけで人は生きていけない』という当たり前だ。実際ここに気付かねば、そんな密門/験門の修行など、所詮絵に描いた餅である。

(*)衆生の側に未だ錬度が足りず、如来の覚りの深奥はとっくに(しかも目前に!)公開されているに、(結果的に)秘されたのも同然になってしまう状態を言う。