蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

怨みを去る

★『弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。』
(マハトマ・ガンディー)

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EU外相会議において、『チベット問題の対話による解決を促す』が決議された。人によっては『物足りない』のかもしれないが、私にとっては、ひどく考えさせられるメッセージである。いたずらに特定の国を非難する目的だけとは、(当たり前なのだが)到底思えなかったのだ。EUの彼らは、政治目的のみだけで語る気持ちはないのだ。よく考えてみれば、欧州こそ、日本の仏教学会が重きを置く『19世紀の近代仏教学』発祥の地ではないか。現代日本密教の地位向上に大きな支えとなったチベット密教⇒タントラ仏教を、世界に先駆けて研究し、高く評価したのは、かの地の研究者なのだ。

私が懸念することは、ダライ・ラマ法王がしばしば言及する『文化的ジェノサイド』に係わることがかなりある。この行為がもたらす波及効果、その結末シーンへの恐れは、どうしても私の脳裏から消えない。その悪夢を何としても避けたいと思って、ともかく自分なりのメッセージを発信し、微力を知りつつも、『南無大慈大悲観世音菩薩』を祈っている。

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ところで『同化政策(ethnocide)』は、一面に『民族浄化(ethnic cleansing)』と極めて危うい関係を有することが知られる。極端なかたちをとった場合、それは『ジェノサイド=民族抹殺(genocide)』に転ずることもそうだ。

チベットを豊かにすればよい』は、所期の目的を大きく逸れてしまっている。自治区を治める権力側の不正・腐敗によるとされる多くの事例や、役人の取り巻きでいる漢民族の連中の懐ばかりを潤すことに寄与してしまった現実が、民族問題とも絡んで、貧しいチベット人の不満を爆発させてしまった。私は別に中国政府の人間ではないけれども、故・鄧小平主席をして、チベット自治区を治める後輩同士の失政について、草葉の陰から地団駄を踏んで憤慨させているだろうと、率直にそう感じている。

チカラの強い民族がチカラの弱い民族に対して、『言葉』『習俗』『宗教』などを受け容れるように迫り、或いは、『婚姻』すら迫って、その人たちが、その人たちらしくあることを担保する文化財だけでなく、寄って立つ血統すらも根絶やしにしてしまう悪夢。その政策目標に関係なく、これらの悪夢の付いて回ることは、人類の英知に誓って忘れてはならない。不正・腐敗のあったことは、微妙な問題を孕む地域であるからこそ、それゆえ、完璧な失政として弾劾されるのだ。

言い換えると、その失政のお陰で、今度は隠蔽されてきた悲惨な現実が、世界中の人たちの前に晒されようとしている。覆い隠そうとしても、もはやは無駄だろう。それほど現実は甘くないのだ。

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チベットの文化は、人類共通の財産として大いに評価され、後世に間違いなく受け継がれる権利を有する。その中に、為政者にとって単に都合の悪い部分があるからとして、仮に根絶やしにするようなことがあれば、そんな行為は絶対に許されない。

ダライ・ラマ法王が訴えている『チベット文化に対するジェノサイド』の深刻さについては、とりわけチベット仏教を自身の研究成果として恩恵を受けた人たちこそ、真剣になって実情を知る努力が要ると考える。不正義が見れば、少なくとも声を上げて、平和へ向かうメッセージを発信すべきなのだ。御身大事は無論結構だ。しかしながら『事なかれ』で本当に良いのかは、各人が胸に手を当ててよく考えて欲しい。

別に脅かす気持ちはないが、その人は『赤岸鎮』、『西安』、或いは『天台山』にお参りできなくなるかもしれない、私を含めて…(苦笑)。信者さんと一緒に円卓を囲んでの宴席もなかろう…。でも、『だから何なのだ?!』。各大師さまは状況をつぶさにご存知だから、きっと許されるのでは? そう思った瞬間から、私自身はちっとも構わなくなった。

暴力の応酬によって、怨みが更なる怨みを呼ぶ悲劇が、日本密教がお世話になった国で起きようとしている。仏陀釈尊の衣鉢を継ぐことを誓った人は、やっぱり声を上げるべきだ。別に格好をつける必要はない。自分の言葉でよいから、『怨みを去る』ことに通じる道の模索はすべきなのだ。この思いを基本にすえて、悲劇の連鎖は食い止める最良の方法を社会に喚起して、世論に訴えなくてはならない。

私は、『同化政策は、所詮人類発展の歴史にとって避けがたいものだ』とか言う、ある種のニヒリズムには与しない。何と言われようが、その渦中にあって、釈尊仏教から続く大乗仏教の法匠らによって継承され、そして確立された、貴重なアイデンテティーの奪われるような事態に対しては『抗議する』のだ。『そんなことはおいそれとあってはならない』、そう言うのだ。

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そのEUがあるヨーロッパ大陸は、知ってのとおり地続きだ。この地続きの意味する深刻さは、民族間の抗争をDNAの中に刻んできた人たちでないと、本当のところは理解しがたいに違いない。

ドイツのメルケル首相が、真っ先に北京オリンピックの開会式を欠席すると表明し、ポーランドのトゥスク首相や、チェコのクラウス大統領らもそれに追随した。

ひとつにはメルケル首相自身が旧東ドイツの出身であることが指摘されている。旧東独の国家秘密警察(シュタージ(Stasi))が行った、『社会の安寧を保障することを目的とする』『基本的人権を完膚なきまでに踏み潰す』密告社会の恐怖を、若き日のメルケルは骨身に染みて知り、その有様を今でもひどく嫌悪していると思う。

ポーランドのトゥスク首相やチェコのクラウス大統領に至っては、祖父母の代にあった、ナチスドイツによるユダヤ人狩り⇒民族抹殺の惨劇の悪夢の記憶が、今なお生々しく残っているはずである。同化政策のひっくり返った先に潜む毒牙を、祖国の心を支えてきたカトリック教会とその信徒と共に、誰よりも敏感に察知しているはずだ。

これら毒牙にある深刻な恐ろしさは、『やった側の者』も『やられた側の者』も、その血の中に等しく共有してきた歴史をもつと考えなくてはならない。一見すれば遠く離れた『イスラエルの同胞』と『パレスチナの人々』が血を血で洗う抗争劇は、アフリカ・ダルフールで起きている惨劇と、アラブとアフリカの両世界を植民地経営しようとした欧州人たちにとっては、道義的な意味合いにおいて、共通の情景として捉える性質のものだと感じる。

だからEUの人たちは『日本人が驚くくらい敏感に反応をした』のではないか。それが彼ら/彼女らの贖罪にも似た『メッセージ』と考えて、大きな間違いはないだろう。ダライ・ラマ法王を通じて発信された仏教の教えは、平和ボケした日本人には信じられないだろうが、大きな福音となって、セルビアコソボの問題で揺れる欧州人たちの心に響いていたことが証明されたと考えるべきである。

そうだ、『声を上げる』だけだ。否、メッセージを発信するだけだって良い。これら小さな行為の積み重ねが、信仰と表現の自由を享受する人にとっては、大切な浄行となる。

☆ 14世ダライ・ラマ法王を見捨てるようなことは、この私には、到底出来ない!!