蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

ご利益とは?

★ こんなにも(神仏に)祈っているのに…。

最初にお断りしておきたい。『こういうこと(↑)自体、そもそも間違いなのです』みたいな、説教めいた話ではない。この場合まったくする気がしない。

寧ろ、(建前に隠されてしまいがちな)『本音』を何とかして伝えたい。

一口に祈りと言っても、色々なパターンがある。その中には、『ワラをもすがる気持ち』での祈りがあって、実際そうやって祈っている人が、今この瞬間にもいる。

そういう人の場合、『選ばれて整った環境下にいる人たち』の前には現れない。仮に現れたところで、『門前払い』されることを(他の誰よりも)知っていることだろう。丁重に、否、慇懃無礼に『自己責任でお願いします』とか言われて、結局は追い払われることを知っているのだ…。

一方、その姿を見て、その必死さに打たれるようにして、その瞬間、行者という生き物は、何とかして寄り添おうと頑張るものであることを、不肖/私は、知っている。

それは―――、仏陀釈尊のされたこと…。

夕暮れの祇園精舎の片隅で声を押し殺して涙を流し、その多くが悄然として一人佇む『出来の悪い』チューラパンタカ(周梨槃得尊者)に対してされたことを、ずっと深いところで模範とすることなのである。

釈尊自ら、年若いバラモン/チューラパンタカの頭をそっと撫でてやり、声をかけて慰めてやったその日。自分自身も、せめて釈尊に倣ってそうありたいものだ、と強く願ってするのだ…。

『お前はこの精舎の皆のため、塵を掃う修行をして回りなさい』と言われ、その教えを愚直なまでに実践した年若きバラモン。そうやって新たな生きる目標を示すことは、若しかしたら、『優しい励まし』と軌を一にする作業なのかも知れぬ。

某所にて―――、『拝んでも効かなかったら意味ないやん』と、本音を隠すことなくハッキリ言った先輩(笑)。しかしながら、その人の置かれた環境を知る人ほど、それを文字通りの暴言として受け取ることはない。

加持祈祷は、恵まれた環境の人の占有物ではない。万策尽きてしまい、もはやどこへも行くあてがなくなり、それでも、そこに人としての真心を一片でもよいから、それを忘れたくなくて、必死になってもがく人のためにあるものだ。

そういう人を、どうして仏天が見捨てるものか。実際そうではなくてはならないから、そうあることで人の真心を掬い取るものだから、密教の祈りはわが国の神祇によって篤く外護され、1300年以上の歴史をこの国で刻んでいるのである。