蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

久米寺

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一昨日から昨日(11/26)まで、奈良の久米寺へ出かけた。YT僧正の引導作法と滅罪護摩の講伝が開催されたのだ。(余談であるが、約40年ぶりのお詣りになると思う)

実にこの講伝だけは前からどうしても受講/受伝したいと考えていて、滅多にしないのだが、会社に休みを届けて出かけたのだった。繁忙期であることは重々承知で、同僚らにお願いした上での『決行』となった(笑)。

引導作法とは、所謂『葬式の作法』である。それも真言密教、即ち、“加持祈祷宗”たる真言宗のそれである。

この講伝に興味をもった最大の理由は、修法内容もさることながら、現代社会、とりわけ都会地における死生観が従来のものから急速に変化して、真言諸大徳が構想された時代の作法では到底対応できない(深刻な)事態に陥ってしまったということに対する、(難しいのかもしれないが)ある種解答を得たいというものであった。

講伝の冒頭、人間としての根本的な大問題と我々僧侶がまったく想像だにしない立ち位置から、しかもそこで否が応でも真正面から向き合わなくてはならない厳しい時代であることを、YT僧正は力説された。

それを耳にした瞬間、新聞紙上で発表されたりする死生観に関するアンケート結果などから凡そ察しがつくことであるものの、それは得てして『遺族側からの視点』ばかりであり、葬式の執行者たる僧侶の視点などは一顧だにされない現実を指摘されたことには、強い衝撃を受けた。

YT僧正の言葉をお借りすれば、要は『お寺が置いてきぼりにされてしまう時代』に突入したということだ。改めて大変な時代の到来したことを実感した次第である。

『今から10年前、お通夜がある前提で編んだ作法なのであるが、肝心のお通夜がもはや風前のともし火とでも云うような深刻な事態が、とりわけ都会地に生じているのです』

『やがてこの“お通夜なし”の葬儀は、都会地から地方へと確実に広がっていくでしょう。現に私の友人のお寺のある木曽の●▲でさえ…』とあって、今回の講伝を通じて伝えたいであろう危機感の一端は、企業社会の人間でもあるこの私にさえ、ひしひしと伝わってきた。

この件では、例えば野村総研が詳細な分析データを示して、某支所メンバーに対する説明のあったことを埼玉のK先生からもお聞きしているし、今から2年前くらになると思うが、経済誌週刊ダイヤモンド』でも特集を組んで、本件の重大さ/深刻さについて警告していた。

★宗教者として、命あるものの逝くべき先をしっかりと示す―――。

かつて、若き日の空海弘法大師はこの久米寺で『大日経』の存在を知り、而してその意味することをその天才をもってしても理解できず、ついに(命をかけて)渡唐することを決意する。

高祖大師の請来された密法の尊さを、私(たち)は、折にふれて伝えていく工夫を益々強めなくてはならないのだ。

『引導などと言って、どこに連れて行かれるのか分からないようなことをされるなんてまっぴら』とは、先々月だと思ったが、私の記憶が正しければ、産経新聞が特集した記事に対するアンケートにあった回答だ。ある統計では、今の僧侶を信用できない人のパーセンテージは全体の75%に上るとある。

ともあれ、誠実に正しく作法を執行することを通じて、祈ることの大切さを伝え、時には自らの背中を見せて歩み続けることそれ自体が、現代社会に生きる僧侶にとっての、当たり前を通り越した『基本中の基本姿勢』となるのだろう。

『南無大師遍照金剛』

合掌