蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

久米寺~その2~

通常、真言宗の事作法伝授の基本として、小野流においては師伝重視、広沢流においては経軌重視ということが言われる。私見ではあるが、歴代の法匠と呼ばれた方たちは、この原理原則に則りながら、而して、我々が想像する以上の闊達な使い分けをされて、事相興隆を図っておられたような印象をもつ。

少なくとも、この原理原則にガチガチに拘束されることなど無かったと思っている。“是々非々”と言うべきか、否、自由で柔軟な考えを秘めつつ、創意工夫に向かわれたという印象だ。実際そうでなかったら、野沢三十六流の分流それ自体は存在しなかったのではないだろうか。まさにコインの表と裏のような関係であって、その信じるところに従って、どちらかを表に、或いは裏にして取り進められたに違いない。

今回のYT僧正の講伝であるが、これが初めての出席だった。『一体どのようなものであろうか…』、誠に僭越ながら、『百聞は一見に如かず』とばかりに出席させて頂いたのであった。

講伝の内容の詳細については、無論口外できる性質のものではないことから、ここでは記さない。但し、この講伝の内容は、(私のそれは)専ら素人の趣味程度かもしれないが、ある意味オタク的にでも追っかけしていた身にしてみると、極めて高いレベルのものであることだけは(確実に)申し上げられます(!)。

思うに、師伝重視スタイルに内在する最大の弱点とは、『伝燈の法匠が遷化されてしまうこと』ではないか、と考えている。要は“その人”が不在となった瞬間、すべて一からのやり直しを要請されてしまう危険と隣り合わせ、と思うからである。

ここで企業用語を、こともあろうに並列的に持ち出すことを(敢えて)お許し願いたい。所謂『属人主義』と呼ばれるものを、である。

属人主義とは、組織の内部統制に係わるリスク・マネージメントにおいて、最重要注意事項の一つとして位置付けている項目だ。有り体に言えば、『その人にしか分からないスタイル』を指しており、情報の共有化(⇒ガラス張りにしたところの“見える化”)を非常に重視する昨今の企業組織にあっては、一義的には否定されるべき項目となっている。

では、経軌重視とは『マニュアル主義』を言い直したものか(?)となるのだが、そうではなくて、そこで口述講伝された内容を書き留めて記録整理しておく作業が必要で、それによって、一定レベルの修学が可能になることを是とする、ということだ。

そう意味からも、歴史上、記録整理作業は必然の成り行きであって、鎌倉時代のものは経軌ではないが、それら口訣集を経軌と等価、時にはそれ以上の重要範例として、常に対照することが繰り替えされてきたのが、真言事相家と呼ばれる方たちの基本的な実修態度であった。

即ち、薄草子、薄草子口訣、秘抄、八結など、真言事相の口訣書として後世に託された一群の取扱いだ。事作法を知ろうとする人は、最低限、その存在だけでも知っておく必要があるという意味もある。

当日の講伝では、成賢、頼喩、動潮など、歴代の真言秘密事相法匠の名前が、YT僧正の口からポンポン出てきた。時間的な制約の中、“盛りだくさんの内容”を講伝するには、YT僧正も自然と早口にならざるを得ないから、こればかりでなく、他の事項についても、かなりの人が、或いは聞き落としてしまった可能性は否定できない。

事実、隣席の尼僧さんが私のメモを“ちら見”するなり(笑)、『写させてもらって宜しいでしょうか』とあり、無論『どうぞ、私のものでよければ』と、(その部分だけ)お見せしたのだが、その内容は、光明真言滅罪護摩の混沌供における“コア”と理解される箇所でもあった。

要は、真言事相に特有の『イメージ操作』に係わる箇所であり、その所作を通じて、この滅罪護摩の目指すところを果たすのである。言えることは、施餓鬼作法の所作をよく実修されている人ならば、そのイメージ操作なるものの言わんとする内容は直ぐに了知されるだろう、ということである。但し、『なぜそうするのか』がよく分からなければ、その尼僧さんと同様にして、私もまた自分自身の言葉でメモし切れない…、と思う。

当日の講伝の模様は、参加者限定でDVD収録されているとのことであるから、不明の内容を確認したい人は、何度も見直す必要があるだろう。同時進行で、密教辞典、その他事相関連の良書を、小まめに索引する作業も必要となるだろう。

その上で、『どうしてそうなるのか』『どうしてそうしたのか』を、常に問い続ける作業をする―――。実にその作業の過程で、『どうして引導作法をするのか』という根本命題、即ち、ひとりの信仰者でもある真言行者が、死者と遺族に対する手向けの祈りの尊さについて、世間一般に対して、その宗教的意義を問いかけるのだ。必ずや、“大日如来という意義”のもつ尊さを伝え得るきっかけになるもの、そのように確信している。