蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

神供壇(その2)

ところで、この『神供』(じんく)なる言葉を聞いて、『あっ、そうですね』と相槌を打てる人が、一体どれ位いるでしょうか。尤も、それで良いのかも…。この神供と共通のコンセプト(?)をもつ作法として挙げられるものに、施餓鬼作法があります。

そう言えばこんなやり取りのあったことを思い出しました。

某師『毎年、このお盆の季節には山谷に行くんですよ。』
生徒『えっ、何のため?』
某師『お経を上げに行くんです、皆で。お施餓鬼のお経です。』
生徒『なんでぇ…、意味が…、う~む…』
某師『去年なんか、うおぉ~、坊さん!、ガンバレ~って、声がかかりましたよ。あんな風に声援されながら法要したの初めてだったネ、エヘヘッ…』

ご参考ですが、この質問をした方は、当時『一流企業』と呼ばれるところの管理職だった方で、それこそ『絵に描いたような』経歴をお持ちの人です。本当に、最後の最後まで『意味がわからない…』という顔をされていたことが、とても印象的でした。その数年後、その方は、まさかの大リストラに巻き込まれます。上のやり取りは、その直前にあった本当の会話です。

密教の祈りは、古代インドの賓客をもてなす作法を取り入れたものです。とりわけテレビなどでも目にする護摩供は、バラモン教の祭祀における作法構成を濃厚に伝えているものです。その瞬間、密檀/護摩壇の上は『晴れがましい場所』と化すわけです。その供応の喜びを知ったら、その喜びの果実を、少しでも広げるべく布施に努めることも行者の大切な務めです。

『施す』(ほどこす)と訓じて、『それって、(高いところから)くれてやるって事でしょう』と短絡する人は思いのほか多いのです。本当の意味は、相手に楽を与え<慈>、相手の苦を抜く<悲>を大前提とするものです。そこに『善意の押し売り』を思わせるような内容など、微塵もありません。否、あってはいけない。それゆえ、逆切れされて『塩を撒かれることだって有り』デス。