蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

アニミズム、そして、癒し

アニミズムという言葉。皆さまは、一度くらいは耳にしたことがあるでしょうか。邦訳して『神霊信仰』という言葉を当てるのが普通です。

私の知る限り、アニミズムを面と向かって言われて、身構えない人はいなかったような気が致します(笑)。このアニミズムは近代的理性なるものの前では、原始信仰の残滓であって、『崇高なる理性』の前では唾棄すべき事柄であると、何となく思っている人たちは多いようです。かく申す私も、現代社会を疾走する意味からか(?!)、そんなことに価値観を置いていてはいけない、と子供心に思っていた時期がございます。否、若しかしたら『思わされていた』のかも知れません。

胎蔵曼荼羅の最外院という、まさに一番外側のエリアには、所謂『神霊』が多く描かれています。とりわけ向かって右側の中央辺りに描かれた『餓鬼』『死体』などの存在…。中台八葉院という真ん中の花弁周辺に列座する『仏さま』の一群と見比べた時、大抵の場合は見落とされる存在でしかないのでしょう。

曼荼羅の位相を通じて、『共生』のメッセージ性をそこに重ねる…。この20年間くらいの間に言われるようになったことであります。ところがこの種の説明をする場合、説明する側にもかなり責任があると(率直に)考えておりました。まず最外院のことを『軽く流す』という態度を無意識にやる。これが鼻について仕方ありませんでした。

昨今、『スピリチュアリティー』(=霊性)という言葉が巷で聞かれるようになりました。このスピリチュアリティーなる概念は、ある意味茫漠としたところもあるのですが、その中には、近代合理主義が否定し、抹殺したはずの『アニミズム』の在ることを忘れてはいけません。有り体に言えば、アニミズムを完全否定した社会には『癒し』なる行為はナイと断定して(概ね)間違いないということです。

『不可視の存在』を完全否定する社会は、モノイズム/拝金主義の蔓延する土壌になりやすいものです。たとえば、『お天道さまが見ているよ』を聞いて、鼻でせせら笑う感性をお持ちの人は、この部分で相当に注意を要すると思います。『癒し』とは、実に心身全体のリラクゼーションに繋がるものですが、心と体をバラバラの独立存在と認識している人は、『癒しとは無縁な人生』を覚悟する必要があるでしょう。身体も心も一体なのであって、身体ばかりに目を向けてもダメなのです。心を見詰めることを知った瞬間、身体の中から力の湧き上がることを実感することが『癒し』の本質になくてはいけません。

現代社会に生きる私たちだからこそ、逆に此処に気付かなくてはいけないと思うし、実際にそのような国・地域を想像できる人は確実に増えていると思いますが、如何でしょうか。

翻って、わが国の現状はどうでしょうか。実は、『神道』がアニミズムの一形態とカテゴリーされ得るのです。ですが…、語感からくる弊害を恐れて、神職さんご自身が、それをなかなか口に出して言えなかったのではないか―――。個人的にそのような感慨をもっております。それにも係わらず、一方では『神話的世界観』を教義として『振り回さなくてはならない』矛盾。
尤も神道信仰においては、密教が蔵する理論体系を持ち込んだところで、決して馴染むものでありません。神道はそもそも『感じる信仰』なのであって、だからこそ神霊信仰の醍醐味を自身の感性の内に見出さなくてはなりません。

ここにおいて、密教をその根幹に据え、道教信仰を取り込んだ修験道信仰は、どうしてもライトアップされねばなりません。日本固有の神道的世界観を尊び、相互供養の祈りを捧げてきた歴史を顧みることは、現代社会を生きる人たちにとって大変に重要な意味をもつものです。
『山川草木悉有仏性』と言います。わが国の信仰体系を語る上で、山岳仏教はその源となるという標識的な概念。非常に大切なところです。その考え方の大前提に、『自然の中に神々がいます』とする、日本固有のアニミズム神霊信仰が不可欠な要素としてあるのです。ここに気付く必要があるのです。

そして…、全くのアイロニーとしか言いようがないこと。即ち、密教アニミズム=神霊信仰を蔑ろにしなかったことによる『弊害』デス―――。明治政府太政官布告神仏分離令の背景に、この教え/実践に対する重大な誤謬のあったことデス。ここを問い直す作業をしなくてはなりません。

先徳方からの口伝を厳格に伝法し、市井にて活動に没頭する密門/験門の師。密門/験門行者によって実践され続ける祈り。その中には、曼荼羅の一番端っこに描かれた『餓鬼』『死体』という、下手をすれば忘れ去られてしまいがちな『弱く劣った存在』への祈りが(必ず)含まれています。彼ら/彼女らへの祈りとは、山野に偏在する神霊への祈りと常にシンクロしていることを、私たちは片時も忘れてはいけない…。