蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

真言神道

真言神道』(稲谷祐宣著:青山社)が復刊され、早速求めたところです。これは、中世の真言密教において創流された『両部神道』の諸作法を解説したもので、前からどうしても一読してみたかったのです。漸く念願叶って、手にすることが出来ました。改めてと言うべきか、自坊における作法で間違いはなかった等等、ホッとしたのも束の間、改めて密教修験道信仰の奥深さを噛み締めています。

神仏習合』とか『神仏混交』などと申します。これらの言葉を始めて耳にした時、『へぇ~、何でもありって、何か気持ち悪い』と、今思えば、メチャクチャ罰当たりな感想をもっていました(苦笑)。最近になって、こういう言葉でしか表現出来なくなっている現状が厳然としてあることを知るに到って、伝統文化を破壊してしまうことの、ある種恐ろしさを感じています。明治時代の前まで、つまり江戸時代まで、こんなことを言う人は、一部の国学者だけだったのだから…。

曼荼羅を護持する人たちにとって、或いは、山川草木に神霊の生の声を聞く人たちにとって、神と仏は共生されて当然でした。大日如来という宇宙の根本物に全ては連なると考えた人たちも、山野を跋渉してダイレクトに命の息吹を感じていた人たちも、密法に依る供養法を様々に工夫する作業を通じて、至心の祈りを深めていたのです。

日本の精神文化の特質には、異質の存在に対して寛容であり、最後は有機的な連結をとるところまで進化発展させるものがある、と思います。恐らく、現代社会に生きる日本人の多くが、八百万の神々を読経によって供養すると聞いて驚くことでしょう。或いは、密門/験門の僧侶が祝詞を奏上し、しかも拍手をして供養すると聞けば、もっと驚くのかも知れません。

言える事は、私たちの祖先の信仰観は、現代人にある硬直的なものではなく、非常にしなやかな感性を基盤としていたということです。西洋近代合理主義の悪弊を言えば、『混交は混沌である』と断罪して、『いい加減でデタラメ』という具合にし、非常にネガティブに取り扱おうとするところでしょう。具体的には、主客の切り分け、即ち『主観的』とか『客観的』とかを何気なく使う感覚を、ある意味払拭していかないと、真言神道に代表されるような『神仏習合の作法』は、好事家の教材以上の評価を得るに止まるのだと思います。

密法に依る神祇への供養作法の本質には、明治維新から久しく忘れかけてしまった日本人の魂の根幹に直結するものが存在します。