蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

逆縁

恐らくこのブログをご覧になっていると思うので、その方(仮にTさんとします)、同じような境遇に置かれてしまって、それも全く想像もしないような環境に置かれた方のために、以下を記したいと思う。

たまたまそのブログを訪問して、私はその事実を知った。話に聞いてはいても、まさかご自身の身内にそのようなことが起ころうとは、まして自身が神仏を信心しているような場合、なおさら衝撃は大きいことだろうと想像して、一瞬お掛けする言葉を失ったというのが正直な気持ちだ。

救いなのは、『お勤めする』ことを日常とされておられたことだ。それによって、先ずは先さまの冥福をお祈りし、そのご家族への謝罪の気持ちが伝わることを希い、さらにはご家族の懺悔滅罪を祈って過ごす―――。往昔より実践されてきたことであり、先人の多くがそれによって一筋の光明を見て、魂の救いを得た。

釈尊が『縁起』を説かれたことは、仏教について学ぶ人なら誰でも知っていよう。『これも何かのご縁だと思いますから…』とは、この世界ではしばしば使われる定型句でもあるのだが、その場合は『善縁』を指すことが専らだ。

一方、悪い方向に向かわせる縁の場合は、『悪縁』とか『腐れ縁』とは世間で多く聞く言葉だ。この世界では、それを特に『逆縁』と呼ぶことがある。ならば『順縁』があるのかと、訝しく思う人もおられるだろうが、今説明したとおり、『縁』とは概ね『a good direction』を導くものとして人々に受け止められているものだ。それゆえ順縁が大前提となるから、『とりたてて言わない』になるだろう。

それでは何故、先徳は敢えて『逆縁』と呼んだのだろうか。私が今の段階で思うことは、『縁』という触媒によって、直下の出来事の吉凶が、必ずしも衆生の思い描くものとは異なることを指摘したいが為では?と云うことだ。

刑事罰執行の前提として、被疑者の行為そのものが構成要件に合致することを事由とするのが、近代刑法理論の大原則だ。結果として成立した行為は、刑事訴訟法の定めに則って、正しく処置されることが、人を裁く基本原則となる。この一連の手続き(due process)が正しく執行されることの意味は、恣意的な私刑(リンチ)の横行した中世社会との訣別を意味することでもある。

但し、その人のココロ、内面までも斟酌することは、現行の法体系では想定しない。当然のことだ。ここに携わることをするのが、宗教者の役割であることは言うを待たない。

★ 善人なをもて往生を遂ぐ、況や悪人をや。 

私は密門/験門世界の末席を汚す行者だ。そういう私が言うのも意外かも知れないが、私は一方で、親鸞聖人の筆頭弟子/唯円房によって記された『歎異抄』に、魂の根底から揺さぶられるような経験をした人間だ。言い方は適当ではないが、『親鸞聖人の隠れファン』とでも思って頂いて構わない。高校時代、なぜだか世界史の授業で(理由は忘れたが)親鸞聖人のこの有名な言葉の説明を先生からお聞きした時、私は強い衝撃を受けて、茫然自失した。次の瞬間、私は、これから先、己の人生の向かうべき方向を鮮明に自覚した。

この一説は、無条件の悪人礼讃ではないと説明するのが普通だし、それはそれで間違いではない。しかしながら、親鸞聖人の説かれた内容の凄みは、まったく別なところにある。

『自身の悪行をハッキリ自覚した人間が、贖罪を思って己の胸を叩いて懺悔し、血の涙を流し嗚咽して悔悟する様子。それを阿弥陀さまは(絶対に!)見逃さないのだ』と。このような内容は、自分の人生において地獄に堕ちるような体験をし、そこから生爪を剥がすような思いで這い上がった経験をした人でなければ、決して言えないことだと思う。

私がその時触れたものは、『黒々とした情念』(哲学者/梅原猛氏)だったのかも知れない。高校生だった当時の私には、その時の衝撃を表現するスベは判らなかったけれども、それによって瞬時に『ホトケさまはおられる!』と、訳もなく、しかも強烈に確信した。

このブログのサブタイトル『~祈りの道へ~』とは、この時の体験が大きくあるのだが、この場合、そんなことはどうでも良いのだ。『逆縁』即ち、目前に広がる光景がどんなにか意図しない不幸なものであろうとも、その光景の向こう側に広がる世界の存在を示唆する前段として、この言葉をどうか記憶に留めておいて欲しいと願う。親鸞聖人はそこを喝破されて、そこにすらも差し込む一筋の光明あることを、私たちに教えたのだ。単純に『善悪』の二分法にしない大きな理由が、ここにある。

それによって私は『逆縁もまた仏縁なり』の意味を、とりわけ歎異抄に出遭って以降は、自分自身に言い聞かせられるようになったと思う。それによって、真実の贖罪が可能になると確信できたから、この世界の末席を汚すことを許されたのだと思っている。もっと具体的に言ってしまえば、その人は、ホトケさまに思いを寄せた刹那、『自分は決して独りぼっちではない』ことを知る。