蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

清瀧権現の神秘体験~その3~

唐突だが、『呪いの研究~拡張する意識と霊性~』(中村雅彦著/トランスビュー刊:2003年)をプロフィールで紹介している。(すでにご覧の皆さまにおかれては、ご承知のとおりです)

この本は、むしろ専門書/研究書として、僭越ながら、非常に示唆に富む内容を含むものとして評価すべきで、単なる息抜き目的で目を通したところで、かなり無意味のような気がするどころか、逆に心理的な負担にすらなるのではないかと、密かに危惧しているのは事実だ。

実際、この著作によって、私は自ら体験した修行中の『異変(否、怪異か?)』を俯瞰的に見直すという、まさに絶好の機会を得たことは申し上げられる。

その後これをご縁として、中村師の一連のお考えについては、WEB上などで数多くの訪問者のひとりとなり、じっくり拝見することになった。

ともあれ、かいつまんで言うと、『その人にとって(霊的に)有縁の場所に行った場合、逆に気分が悪くなることが多くある』というような内容の記述があるのだが、『その人の深いところに(沈殿する)無意識の領域で、ある種の触媒反応が(有縁の霊的事象によって)生じる』ことが指摘されていたと記憶する。

そのうちの強度の霊的反応こそが、『シャーマンの危機』と呼ばれる、錯乱状態の局面すら伴う、その人の意識と霊性が拡張を始める予兆であり、所謂『覚醒へ向かう初期段階』なのだ。(これは私なりの理解である)

これには感じるところが多々あり、それゆえこれを仮説として立てた場合には、その後に私の周囲に生じた諸々は、あるひとつの形をとって、そして、複数の枝が有機的に結びつきながら、最後には、己の過去から未来に至るまでの全人生を示唆するかのような、強く深いメッセージ性を伴いつつ完結しようとする姿に、おぼろげながらも気付くようになった。

無論、その実証へ向かう過程を『こじつけ』とすることは容易であるが、但し、それを何もしない人が言うなら『ちょっと待った』ではある。

この場合、頭だけの理解でいけば『妄想である』と断定することだって出来よう。しかしながら、そこに実践を伴う主体的な行動が存在していたら…、は繰り返されるべきである。要は、それ自体はその人個人だけのものかもしれないが、その人の中では、『たったひとつの真実そのもの』だということである。

そしてその真実なるものは、その人にとって、かけがえのない実りであることは、『やったその人にしか分からないこと』であることに注意深くあるべきである。

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さて―――、先に唐から帰朝する空海が、善女龍王に対して、密教の三昧耶戒の授戒を断ったことを述べた。

この三昧耶戒の筆頭に記載されるのは、『信じること』である。戒である以上、『こうしよう』という徳目が並ぶことを想定する(であろう)現代人にとって、かなり意外かもしれないが、『信じることですべてが始まる』ことを、弘法大師は敢えて述べていることに注意を要する。

この『信じる』ことの危うさ、それを逆手にとって悪行をはたらく輩はひとまず横に置いて、この尊い実践について、弘法大師は『実類の神である善女龍王』に真摯に問うた。

即ち、『それでも信じきれるか?』を、彼女の菩提心に向かって、具体的な実践を通じて問うたと見るべきだろう。

~続く~